人は合理的であるべきかということ

そもそも人というのは非合理なものだ。

感情の方が先に存在するし、争わない方が合理的、階層は固定化した方がいい。

人は感情の生き物だ。好き嫌いで物事はすすむ。

好き嫌いしかない、それには長期・短期もあるが基本全て同じだ。

そもそも一夫一婦制も合理的ではないし、究極を言えば死・老いは全く合理的ではない。生産性の高い状態を維持できない生物という物は極めて非合理である。

あらゆる面で非合理である人間の社会において合理的であることにさほどの意味はない。


一部の合理的なことを称賛する人間に対して有利であることや、ビジネスの一側面、生活のほんの一部に対して偶に有利なことがあるだけで、基本的に人間は非合理であることを前提に非合理に生きた方が良い。

「自分は合理的である」と思う者は、非合理であることにどこまで忍耐を持って取り組むことができるのかを鍛えなくてはならない。

メールの文章も、OKやNGでいいはず。それを長ったらしく打つこと、ビジネスメールに限らずそうだ、友人付き合いでも同じである。


つまり、人は人の非合理な面のために生きるべきである。


これは「好かれよ」というより、「人を想え」という意味だ。

好かれることは自分が物事を押し進めるには極めて重要だ、最も重要であると言っていい。


好かれることよりも重要であることがあるとすれば、「人に想われること」だ。

人に好かれたければ人を好きになれば良い、人に想われたければ人を想えば良い、実はとても簡単なことだ。目の前の人を好きになり、本気で想うことだけだ。


叱咤をしても、怒りはぶつけず、褒めることはしても持ち上げることはしないこと。

本気で喜ばせるとは、感情をその場で湧き上がらせることではなく、目の前の人間の中に波紋を作ることだ。その波紋を広げる力を養うことだ。


人を想えば、想う力がなくてはならない。

ただ想っているだけよりも、さらに目の前の人間をよりよくするということを自分の持つあらゆる方法で達成することだ。

そのための力を自らにつける必要があり、そのためには努力が必要だ。人を想うことは簡単ではない。


人に好かれ、人に想われるために、人を好きになり、人を想うこと。人を好きになり、人を想うために自らを高める努力をする必要がある。

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