外で働くというのは、誰か他人のために働いている訳で、ずっとそれを続けるというのは実際どうなのか、あたかも正しいように言っているけれども本当に正しいのか。
資本主義の世の中において、労働者層を洗脳することも大事なリスクヘッジである事は間違いない。長い時間をかけて、あらゆる媒体や教育機関も利用して経営者層や株主層が自らの地位の確保のためにそれらの洗脳を進めたというのも至って自然な流れである。
過去、労働者の反乱を力と武力で押さえて来たものを、平和な形で徐々に行ったとしても実に理にかなった方法である。
つまり、労働者でいることを是認する、正しく、それが普通なのだとしむける事に素直にメリットがあり、合理的であるように思える。
普通の暮らしがしやすい事や、少し給料が高い、ステータスなどといったことはそれらの構造を維持するための要素である。
今、自分は誰のために働いているのか、という問いに対しては「株主」となるだろう。
自分はまだ資本や力がないから株主のために、時間という平等に持つ資源を売って提供している。
つまり、労働者から抜け出すのにおいて足りないものがあるのだ。
他の社員もみな、株主のために働いているのであるが、足りないものを自覚して、その足りないものを補うために動く事が出来れば次につながるのではないか。
株主に雇われているという現状、与えられた役割と給与がその評価であり、契約である。
株主や役員たちにとって自分は正直どうでもいいか、それ以下の存在であり自覚したうえで自分に足りないものを得て去ることを考えなければ50年という時間を誰かのために提供して終わる。その誰かはその得た時間で人生を過ごす事が出来るのである。
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