そもそもなぜ人間は光るもの、金属や宝石を好むのであろうか。
時代によってあまり変化なく、人類はある種普遍的にそういった光るモノを好んで収集する癖があるように思う。
その理由が不変なのであれば、現代において「光り物」が好まれる理由を分析することでもその一端が見えてきそうな気がする。
「光り物」について、特段変わった定義をするつもりはない。もちろん貴金属、宝石類のアクセサリーのこと。
たいていの人(特に女性のイメージがあるが)は「光り物」をプレゼントされると喜ぶので、何をあげたらいいかわからないとき、とにかく「光り物」にしておけば失敗がない、無難なプレゼントだと言える。そのため、クリスマスの時期になると、男性誌はこぞってアクセサリー類の特集を組み、連れ立ったカップルが百貨店を訪れる。
当たり前の光景に見えるが改めて立ち止まって考えてみると、なぜ「光り物」なのか。
同じ価値であれば自動車や、証券でもいいのではないだろうか。しかし、それらのプレゼントよりも同じ価格であれば明らかに光り物が喜ばれる。
もちろん、とても欲しかったセーターをプレゼントされてもうれしいだろう。しかしセーターでは、数年着たら、飽きてしまうかもしれないし、流行遅れになってしまうかもしれない。その点、本物の貴金属類は、一生その価値はそれほどに変わることはない。多少の流行はあっても、ゴールドに小さな宝石がついたシンブルなネックレスなど、基本的には変わらない。
だが、この消耗がないことだけが価値か、それはまた違う。もし同じ価値であるからと言って、そこらに落ちているような石をプレゼントするのは少しもったいない。
光っていた方が喜ばれる。つまり、そういうことだ。
貴金属類を捨てる人はいない。
貴金属類は、そのままひとつの財産だからである。
人間には、自分の持ち物、服装などに自我を投影し、いいブランドの物を着たり、高価な物をたくさんもつことによって、自我が大きくなったように感じる心理がある。
つまり、簡単にいえば、光り物によって、自分が「大物」になった気分を昧わえる。社会的影響のある、優れた人間であるという気分に浸ることができるのである。
だから、光ることが大事。格好良く、美しく光ることが大事なのである。
光るそれらが自分だから。
そして、自我を拡大したいと思うと、どんどん物を集めるようになる。より多くの美しいものを集める。もちろん、なかなか手に入らない、いい物を集める。
自我が安定していて、社会の中で十分に自己が表現されている人なら、この欲求はそれほど強くない。
いいブランドの物を着たり、高価なものをもっていなくとも、人格的、あるいは能力的に社会の中で十分に評価されていますから、あまり執着しない。
他人に認めてもらえず、自我を小さく感じている人ほど、大きくしようという欲求が働き、物質収集に走る傾向があるという。
「永続性がある」とは、いつの時代になっても、その価値が崩れないという意味である。その最たるものが貴金属や宝石という光り物である。
彼らの輝きは色褪せない。
50年後でも100年後でも一定の価値を保っている。所有欲に限りがないのは、それが、精神的な「自我拡大欲求」の投影だからである。
自我拡大のために所有する。
その対象は美しくあるほどに価値がある。
その変わらない美しさが自分自身であるから、お金は美しくある必要があった。
だからこそ、女性にとっては、昔から、貴余属類をたくさんもつことが、ひとつのステイタスだったのである。変わらない美しさを自らに投影すること。
だからこそ、美しく輝く光り物に価値を求め、美しい金こそが通貨となり得たのである。
ここで次の疑問が生じる。
人が美しいと感じるものはなにか。
他の記事で考察したい。
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